

吉川清・生美夫妻について
【夫妻の出会と被爆】
吉川清・生美夫妻は、1944年、原爆投下の1年前に広島県の三次市でお見合いし、結婚した。
生美さんは、お見合いから帰る清さんの後ろ姿「背中」に一目ぼれしたという。
夫妻は広島市の白島西中町(当時)の借家に清さんの父、清さん、生美さんの3人で生活していた。
8月6日当日、当時勤めていた広島電鉄の防空当番の夜勤明けで自宅に戻った清さんは玄関に入った瞬間、閃光を感じ、熱線にさらされた背中や腕、手のひらを大火傷した。生美さんも洗濯物を干していて被爆。両肩と背中の一部に火傷を負った。逃げる途中で全身大やけどを負った清さんの父に出会い、清さんが火傷の背中に父を背負って、生美さんも一緒に逃げてほしいとついてきた見知らぬ子ども2人の手をひいて川を渡って逃げ、可部(現・安佐北区)にある勝圓寺で2カ月余りの療養した。
【広島赤十字病院に入院】
吉川夫妻は1946年2月に広島赤十字病院に入院した。翌1947年4月30日に広島赤十字病院を訪れた米国の通信社や新聞社、雑誌記者、米軍の高官など20人余りの視察団が病院を訪れ、吉川清さんのケロイドを撮影。吉川さんは強く反発を持ちながらも「そうだ、私どもが体験した原爆がどれほど残酷なものであったか、それを加害国民である彼らに直接うったえる、これは絶好の機会ではないか」(吉川清「原爆一号といわれて」より)という限りない怒りの気持ちで応じなどた。後にアメリカの「LIFE」誌などに写真が掲載され、大きな反響を呼ぶ。その後、病院の環境改善を患者会をつくって訴えたが、1951年4月、退院を告げられた。
【原爆ドーム前で土産物屋を開く】
退院したその日、爆心地近くで野宿をした。無理をするとすぐ疲れる、いわゆる「ブラブラ病」の症状や歯茎からの出血など原爆の後障害に苦しみ、働きたくとも職につけなかった。そんな吉川さんに「原爆ドームを訪れる観光客向けに絵はがきなどのみやげ物を売ってはどうか」と声をかけてくれた人がいた。
吉川さんは卸屋から絵はがきを仕入れ戸板に並べて売り始めた。初日250円の売り上げがあった。
当時の日雇い1日分の賃金。夫妻は被爆後初めて腹いっぱい食べることができた。店は多くの外国人や観光客が訪れ、繁盛した。しかし「原爆を売り物にしているという批判もあった。」
【原爆被害者更生会結成と運動】
当時、被爆者への援護はほとんどなかったが清さんは被爆者の家を訪ね歩き、住宅、就職、健康と病気の治療の問題を抱える被爆者の生活状況を聞いた。1951年の8月末、広島城近くに借りた倉庫で被爆者約30人とともに「原爆傷害者更生会」を結成。1年後の8月10日には、「原爆被害者の会」の発会式を行う。その後、核実験に抗議して初めて座り込みを行うなど、被爆者運動の先駆者ともなった。会は長続きしなかったが、吉川さんらの活動は、やがて広島県原爆被害者団体協議会、日本原水爆被害者団体協議会の結成につながっていった。
【原爆ドームと吉川夫妻】
原爆ドームの取り壊しの話が持ち上がった昭和30年代、清さんは「ドームを壊すなら、わしを倒してからにしろ」と撤去に反対したと生美さんはいう。やがて楮山ヒロ子さんの日記をもとに始まった保存のための募金活動もあり、広島市長も動いて、ドームの保存が決まった。12年間、観光客や修学旅行生らにケロイドを見せながら、被爆の実相を語り続けてきた吉川さんだったが、土産物屋のバラックはやがて「平和都市建設法」による公園整備が進む中、広島市に取り壊され、平和公園一帯で小さな屋台車にみやげ物を積んで商売を始めたが、市長から「平和公園一帯は聖地である。そこで商売をするのは好ましくない」と言われ、土産物屋をやめた。1969年、吉川さんは、洋酒バー「原始林」を開く。吉川夫妻にとって「全く未知の世界」であったがマスコミ関係者や文化人が集まるサロンのような存在になった。
清さんはその後、脳卒中で倒れ、入院生活となり、生美さんはつきっきりで看病したが、1986年、清さんは亡くなった。その後は生美さんが被爆体験を伝えるようになり、その時にはいつも被爆した清さんのケロイドの写真を見せていた。「もう決して私たちと同じような目に子どもたちをあわせてはならない」「広島で起きたようなことが二度とあってはならない」「被爆体験を語りながらその場で力尽きても本望」と語っていた生美さん。2013年12月末に亡くなった。
私たちは、被爆後、自分たちで土産物を販売しながらたくましく戦後の広島を生き抜き、同時に決して原爆投下が繰り返されてはならないと恒久平和を伝え続けた吉川さんご夫妻のことを伝えていきたいと思っています。
1944年 6月に広島県三次市でお見合い
8月に結婚 広島へ
1945年 8月6日 広島市白島西中町で被爆(爆心地から1.6キロ)
1947年 4月30日 広島赤十字病院で米記者に撮影される
1951年 春 退院し、原爆ドーム前で土産物屋を開く
1951年 8月 原爆障害者更生会を結成
1956年 5月 広島県被爆者団体協議会 結成
1986年 吉川清さん死去(享年74)
2013年 12月 吉川生美さん死去(享年92)




