
Q.この建物(たてもの)は何(なに)?
A.これはね、原爆(げんばく)が落(お)とされる16年前(ねんまえ)に建(た)てられて、原爆で何(なに)が起(お)こったかを見(み)ていた建物(たてもの)なんだよ。「大正屋呉服店(たいしょうごふくてん)」という着物(きもの)を売(う)るお店(みせ)だったんだ。とても丈夫(じょうぶ)な建物で、原爆がすぐ近(ちか)くでさく裂(れつ)したのに壊(こわ)れないで残(のこ)ったんだ。
Q.ふーん、さっき①で見た壁(かべ)はその頃(ころ)のままなんだね。触(さわ)ってみたよ。
A.そうだね。②や⑤や⑦の昔(むかし)の天井(てんじょう)や階段(かいだん)を見ると、原爆がどんなにすごい力でこの建物を壊したのかがよくわかるね。
Q.③の地下室(ちかしつ)も見たよ。
A.戦争(せんそう)が激(はげ)しくなると、着物を売るような商売は(しょうばい)できなくなったんだ。だからこの建物は燃料組合(ねんりょうくみあい)の事務所(じむしょ)になっていたんだよ。あの1945年8月6日の朝(あさ)も、37人(にん)がここで仕事(しごと)を始(はじ)めようとしていた。8時15分、原爆がさく裂!ここは爆心地(ばくしんち)から170m。ちょうど地下(ちか)に書類(しょるい)を取(と)りに下(お)りていた47歳(さい)の野村英三(えいぞう)さんは、崩(くず)れた階段(かいだん)から外(そと)にはい出(だ)した。8人が出てきたが、火(ひ)と煙(けむり)がひどくなって散り散り(ちりぢり)になってしまったらしい。野村英三さんは何(なん)とか家(いえ)に帰(かえ)ることができて、84歳で亡(な)くなるまで奇跡的(きせきてき)に生(い)き延(の)びることができたんだ。その野村英三さんがいた地下室が今(いま)も残されているんだよ。あの時(とき)、どんなことが起こったか、想像(そうぞう)できたかな?
Q.3階(かい)④では、この辺(へん)は賑(にぎ)やかな町(まち)だったって書(か)いてあったよ。公園(こうえん)じゃなかったの?
A.そうだよ。ここは中島地区(なかじまちく)といって、たくさんお店が並(なら)んでいて、いつも買い物(かいもの)に来(く)る人や仕事(しごと)をする人でいっぱいだった。今、公園になっているところだけでも4千人以上(せんにんいじょう)の人が住(す)んでいたんだ。映画館(えいがかん)やカフェがあって、そこらじゅうで子(こ)どもたちが遊(あそ)んでいるような町(まち)だった。ところが原爆(げんばく)で町は破壊(はかい)され、人々(ひとびと)の命(いのち)が奪(うば)われ、地獄(じごく)になってしまったんだね。この建物はその全部(ぜんぶ)を見て来(き)たんだよ。
Q.2階⑥にピアノが置(お)いてあったよ。
A.あれはね、河本明子(かわもとあきこ)さんがいつも弾(ひ)いていたピアノだよ。明子さんは被爆(ひばく)して翌日(よくじつ)に亡(な)くなってしまった。19歳(さい)だった。ピアノは爆風(ばくふう)で飛(と)んできたガラスのかけらが突(つ)き刺(さ)さっている。でも多く(おお)の人の力(ちから)で修復(しゅうふく)され、今もすてきなメロディを奏(かな)でてくれているんだよ。被爆ピアノのコンサートも聞(き)いてみたいね。