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被爆者として 〜いま伝えたいこと〜

2024年8月23日(金)ドキュメンタリー『ヒロシマ・ナガサキ 〜核戦争のもたらすもの〜』上映後、被爆者であり、このドキュメンタリーにも出演したワールドフレンドシップセンター名誉理事長の森下弘さんによる講演会が広島市平和記念公園レストハウス3階にて行われました。

今の大崎上島で生まれた森下さんはその後広島の白島(はくしま)に移り住んだそうですが、当時は広島にある宇品(うじな)港から中国に出征する陸軍兵士に各家庭が食事や宿泊を提供していたため、兵隊さんによくしてもらったと話してくださいました。

そして広島県内随一の名門校として名高かった一中(旧制広島第一中学校・現 広島県立広島国泰寺高等学校)に入学します。当時の日本では英語は敵性語として禁止されていましたが、一中では前身が広島外国語学校として設立されたことで英語での授業があったそうです。

3年生になるころから戦況の悪化に伴い、授業はなくなり、広島市内の工場で飛行機のピストンを旋盤で研磨する作業等が日課になっていきます。

やがて金属も底をつき、作業することもなくなる中、建物疎開の作業に就き、昭和20(1945)年8月6日午前7:00過ぎにいつものように全員で集合し、作業の説明を受けていた時、鶴見橋のあたりで突然閃光があり、その後吹き飛ばされ、気が付いたらまるで溶鉱炉の中にみんなで入っているような感覚になったそうです。何が起きたかも分からず、近くの比治山(ひじやま)に登り、木々の間から広島市内を見てみると街がなくなっており、異様なことが起こったと気付いたそうです。

あまりの出来事にまるで自分自身が無機質なカメラのレンズになったような感覚にとらわれたと話してくださいました。

当時の家屋は木造だったことで、爆風で一様につぶれていたものの、まだ火がつく前で、広島市一帯が火の海になる前の壊滅状態を目撃したという話に観客は驚きを隠せませんでした。家族は疎開していた父と兄弟は無事だったものの、白島の自宅にいた母親は倒壊した家の下敷きになって亡くなられたそうです。呆然とした日々を過ごしながらも火傷の手当てを受けながら、やがて広島大学文学部に入学することになります。全ての地上のものは滅びるが、文学は永遠に残ることから文学を志したと話してくださいました。

文学部に在籍しながら書を学び始め、高校教師になってからは生徒に書道を教えるようになったそうです。

今から60年前の1964年にバーバラ・レイノルズ氏と共に世界平和巡礼に参加し、欧米やソ連(現ロシア)を巡り、核廃絶を訴える中でトルーマン元大統領とも面会したお話や、つい最近オッペンハイマー博士のお孫さんと面会したお話もしてくださいました。

森下さんは最後に「今でも人類は愚かではないと信じている」と結び、会場の皆さんが大きく頷く中で講演会は終了しました。



 
 
 

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