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原爆小頭症とともに歩んだ60年~きのこ会の歩みと未来への願い~

元RCC(中国放送)記者として長年、原爆小頭症を取材し、現在は小頭症の当事者と家族の会「きのこ会」の事務局長を務める平尾直政さんによるトークショーが行われました。会場は満席で、追加の椅子を並べるほど多くの人が耳を傾けました。記者をされていただけあって、スライドを用いた説明は分かりやすく、聞き手を引き込む内容でした。

「きのこ会」とは、原爆小頭症の被爆者と家族による会です。原爆小頭症は、妊娠8~15週の胎児が近距離で胎内被爆したことにより発症し、頭囲が小さく脳や身体に障害が生じます。終戦直後、原爆障害調査委員会(ABCC)は「小頭症は原爆と無関係」と説明し、国も原爆症と認定しませんでした。そのため、当事者は長く社会から埋もれた存在となっていました。

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しかし1965年、中国放送の秋信利彦さんが取材したことをきっかけに、6家族が集まり「原爆小頭児の親の会」が結成されます。活動の柱を「原爆症認定」「終身補償」「核兵器廃絶」と定め、会の名を「きのこ会」としました。そこには「きのこ雲の下で生まれた小さな命も、木の葉を押しのけて育つきのこのように元気に生きてほしい」という願いが込められています。こうして社会に実態が知られるようになり、1967年に国は原爆と小頭症の因果関係を認定しました。1972年には、広島で48人、長崎で15人の小頭症患者が確認されています。

平尾さん自身も、小頭症の被爆者である小草信子さん(のぶちゃん)を長年取材してきた縁から、きのこ会を支えるようになりました。のぶちゃんは母親の胎内で被爆し、翌年、大崎下島で生まれました。右足の指が欠損し、頭囲も小さかったため、ご両親は「遺伝的障害だと思われ差別されるのでは」と恐れ、障害を隠そうとしました。お姉さんたちの結婚に支障が出ることを心配し、母は姉2人を連れて山梨へ移住。兄も婿養子に入り、のぶちゃんは父と二人暮らしとなります。しかし父も亡くなり、のぶちゃんは島で一人暮らしに。2013年、67歳で肝不全により生涯を閉じました。晩年は兄が見舞っていましたが、葬儀は行われず直葬になりました。棺には新品のピンクのスニーカーが入れられ、「思う存分走れよ」という兄の想いが託されていました。

のぶちゃんの最期を見届けた平尾さんは、当初「なぜ葬儀もせずに」と憤りを感じましたが、やがて気づきます。兄は家族を差別から守ろうとしつつ、のぶちゃんへの愛情も確かに持っていたのだと。

平尾さんは言います。「核兵器は胎児という最も弱い存在を壊し、家族という最も強い絆までも壊してしまう。偏見や差別は無知から生まれ、戦争に通じる。すべての命の重さは同じである。それにもかかわらず、核兵器は放射線で遺伝子を傷つけ、数十年後に命を奪い、偏見や差別まで生み出すのです。」そして、「被爆体験を語るとき、当時の惨状だけでなく、その後どのように生きてきたかを伝えなければ核兵器の真の恐ろしさは伝わらない」と強調されました。

平尾さんの活動は今も続いています。きのこ会の仲間が安らかな晩年を過ごせるように、また活動を広く知ってもらえるよう、写真展や出版などにも力を注いでいます。今回のトークショーを通じて、私たち一人ひとりが「同じ苦しみを次世代に繰り返させない」ために、学び続け、伝え続けることの大切さを強く感じました。

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