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「原爆であったことは取り返せないけど、それでも前向きに生きること、それを実践しているんです」と百合子さんは笑った

8月22日(金)13:00から、広島市平和記念公園レストハウス3F多目的室で、

早志百合子さん(被爆者・「原爆の子きょう竹会」会長・NPO法人ステップ21代表)と村田くみさん(ライター・編集査)のトークショーが行われました。

 

おふたりが知り合ったのは、HIPPY(ヒッピー・歌手)さん主催、流川(広島市の繁華街)のバーで長く被爆証言会を開いておられた富恵洋次郎さん七回忌の時だったとか。東京在住の村田さんは「被爆者の方はレコーダーを前に置けばスラスラと体験談を話してくれるものだ」と思われていたそうですが、早志さんから「私もそうだけど、証言される人の方が少ないのよ」と教えられ驚いたと同時に、被爆体験だけでなく、その時の日常を知ることも大事なことだと気づかせてくれた早志さんに興味を持たれるようになったそうです。

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伝承者として登録していない早志さんは年に2、3回だけ、どうしてもと頼まれた時以外は証言なさらないそうで、今回は貴重な体験となりました。被爆されたのは国民学校3年生、9歳の時。本来なら疎開するはずでしたが、生まれた時から虚弱体質で、もしかしたら10歳まで生きられないと言われ、疎開を拒否。父、母、弟と土手町(今の比治山町)で暮らしていて、8月6日の8時15分を迎えました。その時、運よく4人とも玄関内にいたことで直接の被爆を免れたことは幸運で、ちなみに爆心地から1.6kmで家族全員が助かった例は稀有だったそうです。家も焼け、とにかく火のないところへ避難しようと牛田まで歩くも、道の両端には死体の山、下にも沢山の死体が転がっているのを踏み越えて行った時の足の裏の感触は今も鮮明に覚えていると語りました。

 

なんとか牛田まで逃げ通せたものの、そこに知り合いはなく、河原で野宿の生活を始めました。雑草を食べ、昆虫を食べ、カエルを食べ、蛇も食べたが、早志さんは虚弱体質に原爆病が重なり、日に日に弱っていったそうです。そこで突然、母親が何の知識も無しに野草を煎じては彼女に飲まし始めた。当然ながらそれは単なる草、摂取するたびに嘔吐を繰り返す酷い目に遭いましたが、全てを吐き出すことで体がデトックスされたのか、死にかけていた彼女が元気になる奇跡。

小学校の記憶は曖昧ですが、中学からは普通に通学できたそうです。

 

辛い思い出と言えば、どこから聞きつけたのか、ABCC(原爆傷害調査委員会)の研究員に定期的に拉致され、全裸にされて検査を受けたこと。爆心地から1.6km以内の被爆者で生き残った9歳の女子は興味深い研究対象だったのでは?と早志さんは推測していますが真実は謎だそうです。高校生の頃、もう嫌だと母親に泣きつきますが、「我慢しんさい。戦争に負けるとはこういうこと」と言われショックを受けたそうです。しかしその後、アメリカ兵は来なくなりました。実は、母が「もう絶対連れて行かせない」と立ち向かってくれたと最近知り「不言実行の母であった」と思ったそうです。

 

中学生の時、作文で被爆したことを書く宿題が出て、あの時のことを素直に書きました。すると、それが広大教授 長田信編の著書「原爆の子」に収録されますが、本人がそのことを知るのはずいぶん後でした。その時、教授自ら手渡ししてくれたサイン本の感動より、おまけに貰ったクッキーの方が嬉しかったと早志さんは懐かしそうに語りました。後に、この本に載った人たちの集まり、原爆の子きょう竹会によるその後の人生を追った『「原爆の子」その後』が自主出版されました。

原爆の子きょう竹会は、特定の団体や信仰には関与しない個人の集まり。年に一度集まり近況をただ話すだけの集合体だそうです。

 

そして今回、「原爆の子」第3部を想定して企画された「平和のうぶごえ『原爆の子』として生きた80年」が出版。大好きなダンスの話、天性の仕事だったバスガイド時代、平和公園に入る時に「原爆許すまじ」を歌うルーティーンで、リアルな歌詞に毎回涙が止まらず、資料館にはどうしても入れなったため3年で辞めたこと。実は主人の実家が結婚に大反対、更に子供は絶対にダメだと言われても強行しで出産、五体満足な子供が生まれた時の喜びは普通の人以上だったことなど日常の中の被爆の影響なども書かれているそうです。

 

最後に、「戦争で、人と人が殺し合うのは絶対止めて欲しい」と声高らかに発言され、大きな拍手の中、トークショーは幕を閉じました。

 

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