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被爆者・佐伯敏子さんの思いを未来へ繋ぐ 〜大阪府松原市の小学校の取り組み〜

更新日:2024年9月24日

被爆者であり、広島平和記念公園内で原爆犠牲者の遺骨を供養する原爆供養塔の清掃活動を長年続けながら証言活動も行っていた佐伯敏子さんの思いを未来へつなぐため、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会代表の中川幹朗(もとお)さんと、大阪府松原市立布忍(ぬのせ)小学校元校長の中島智子先生による講演会が、2024年8月24日(土)に広島市平和記念公園レストハウス3階にて行われました。

 

被爆者である佐伯敏子さんは、原爆供養塔の清掃活動のボランティアを長年にわたって続けていたことから「原爆供養塔の守り人」「ヒロシマの大母さん(おおかあさん)」とも呼ばれていました。

25歳の時、ご長男に会うために姉の家を訪ねていた佐伯さんは爆心地から10km離れていたために原爆の直撃を免れましたが、母や兄弟、夫の家族など、13名を原爆投下後2ヶ月余りで相次いで失います。妹の照子さんは被爆した後親族に身を寄せたものの、「原爆症がうつる」と言われ、近づくことも嫌がられたそうです。

その後、中国から復員してきた夫と広島で生活を始めますが、原爆症(主に原子爆弾による放射線障害の略称)にさいなまれながらも、3人のお子さんを育てました。

1955(昭和30)年、原爆供養塔が完成しますが、手を合わせる人も少なく、ご自身の母親や親族の遺骨が眠っているかもしれないとの思い、犠牲者たちは肉親の迎えを待っているのではないかとも考え、供養塔の清掃活動を始めたそうです。

それから時間が経ち、1970(昭和45)年、供養塔の地下にある納骨堂に出入りできるようになりますが、遺族に引き取られていない遺骨が多くあったことから、遺族を探すため一軒ずつ訪ねたり、電話をかけたりして所在をつきとめ、半年で10柱もの数が遺族に引き取られることになりました。この地道な活動が広島市を動かすことになっていきます。

ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会は、平和公園周辺でかつての痕跡が直接感じられる場所を訪れ、最後に納骨堂のところで佐伯さんからお話を直接聞くことを目的として1994(平成6)年に活動を始めたそうです。その代表である中川さんが数多くのスライドを写しながら佐伯さんのことやヒロシマ・フィールドワークのことについて話してくださいました。



その次に、大阪府松原市立布忍(ぬのせ)小学校元校長の中島先生か登壇し、小学校での取り組みを紹介されました。被爆体験を語り続けてきた佐伯さんの思い、佐伯さんの妹の照子さんが親戚からも距離を置かれていたこと等を語ると共に、ご自身が1980(昭和55)年に作詞作曲された2曲を実演しながら松原市内の小学生に語り続けて来られたことを話してくださいました。その時の教員の方々も大阪から駆けつけ、中島先生の思いが次の世代に引き継がれている様子が伺えました。

最後に観客の方も一緒に2曲を歌い、講演会が終了しました。




 
 
 

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