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「絵本「明子-被爆者である母のこと-」 出版記念トークショーと紙芝居動画アニメ「MEIKO」完全披露会

2024年8月24日(土)10:30から広島市平和記念公園レストハウス3階多目的室にて、現在98歳になられる栗原明子さんを会場にお招きし、彼女の体験を元に製作した紙芝居動画アニメ鑑賞と絵本製作に関わった方々のお話も交えてのトークショーが開催されました。

 

栗原明子さんは五月生まれ。五月は英語でMayということから、メイコさんと名づけられました。父親が眼科医として広島県病院で働くことになったため、一家で東京から引っ越してきました。一家はクリスチャンであったことから、メイコさんもキリスト教系の現広島女学院に入学。しかし、太平洋戦争勃発後は、キリスト教は敵国の宗教とみなされスパイ学校として嫌がらせを受けることもありました。戦況の悪化に伴い、明子さんも学徒動員を命ぜられ、グランドを作るため重い海砂を天秤棒で運んだり、火薬の袋詰め作業、血が付いた使用済みの救命胴衣の解体など、過酷な作業に耐えた学生生活でした。18歳になると自らの意思で、お国のために尼崎の軍需工場に単身で働きに行くことになりましたが、1945年の春に広島に戻り、向洋の東洋工業で作業していた時に被爆。妹と母親は疎開していたので無事でしたが、8月6日に共に朝食をとった父親の行方は分からなくなりました。

 

被爆翌日、東洋工業から自宅に戻るも、自宅は全焼。父親を見つけることもできず、ひとりぼっちになった明子さんは、広島文理科大学の敷地で偶然、友人に会うことができます。そこには、南方特別留学生と呼ばれる東南アジアや中国からの留学生6人もいて、みんなで助け合いながら、励まし合いながら共同の野宿生活が始まります。心細く感じている明子さんのことを気遣い、留学生たちは「明子、また明日もあるから、気を落とさないで」と優しく言葉をかけてくれたり、バイオリンを演奏してくれたりして、明子さんに生きる勇気と希望を与え続けてくれました。

 

その後、疎開先から明子さんを捜して市内に戻った母親と再会でき、明子さんは広島を離れ、疎開先に身を寄せましたが、原爆症を発症。血便や高熱、脱毛などに苦しみましたが、一命をとりとめます。しかし、明子さんと共に過ごした留学生たちのうちの1人は帰国途中、京都で亡くなってしまいました。

 

このような明子さんの体験を、娘さんが紙芝居に仕上げていましたが、多くの人の協力の下に、南方特別留学生や原爆投下についての情報、明子さんのその後の暮らしも交えて、絵本が完成。そして、その絵本をベースに「いま、ここにあるヒロシマ」の実行委員会を中心に、アーティストの恩田トシオさんの映像処理も加えた素晴らしい動画アニメーションも完成しました。会場には、絵本や動画制作に協力された方々も来られ、製作秘話なども紹介してくださいました。

会場内は、穏やかに微笑まれている明子さんを囲み、参加者全員の一体感が感じられる場となりました。得意なことや知識を持つ人たちが、ひとつの作品を作り、その発表を見守る場に立ち会えた参加者は、温かな気持ちになれました。そして、この作品がきっかけとなり、南方特別留学生のストーリーも世の中に広がっていくことでしょう。

最後に明子さんは、静かながらも、しっかりとした口調でおっしゃいました。「命を奪い合う戦争では、自国を大きしたいなどの理由で勝ち負けにこだわるばかり。争いごとは、ひとりひとりの不満から生まれることだろうけれど、一日一日をありがたく感謝して過ごせば、このようなことは起こらないはずです。若い皆さんには、戦争しないよう、平和に暮らしてほしい。それが私、年寄りの願いです。どうか、よろしくお願いします。」








 
 
 

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