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「高校生が描いた原爆の絵」完成記念トークショー

2024年8月25日(日) 被爆者の証言を元にして描かれた「高校生が描いた原爆の絵」完成を記念して、その被爆者である大橋和子さんと絵を描いた広島県立基町高等学校創造表現コースの田邊美羽さんによるトークショーが広島市平和記念公園レストハウス3階で行われました。

大橋さんは、今から10年前、社会のために何かしたいと思うようになり、81歳の時に「光輝幸齢者の集い セカンドぷち」というサロンを廿日市市(はつかいちし)で開き、7年間継続したのちに体調を崩したことで止むなく閉店されます。

現在91歳になられますが、話ができるうちに皆さんに話を聞いてもらおうと思い、初めて被爆体験を話すことにしたと、今回話してくださる経緯をお話くださいました。

その日、1945年8月6日は、平塚町という爆心地から1.5km離れたところで建物疎開の作業をしていたそうですが、そのがれきを集めていた時、飛行機の音が聞こえてきたので、警戒警報や空襲警報が解除になった後なのに変だなと思い、日本の飛行機なのだろうと思っていたところ、晴天を見上げていたところ閃光の後どーんという音がして気が付いたら髪の毛もぼうぼうで何が起こったか分からなかったそうですが生き残ったのは爆発する直前に仲の良い友達が前にいたことで助かったのではないかということでした。当時は爆弾が落ちたら真空状態になり目が飛び出たりすることがあるので、手で目や耳を押さえるよう訓練させられていたそうで、その通りやったつもりだが気が付いたらかなりの距離を爆風で飛ばされていたようです。それから逃げる途中で、足首を石に挟まれて身動きが取れない男性から「引っ張ってくれ」と言われたのに何もできず「お前は非国民か!」と罵られたり、爆発直後であたりがほの暗い中、首から上や手足がなくなってしまった子を背負った母親を見たりしたそうです。途中で気を失いながらも逃げていると喉が焼けるように痛く、水を飲もうと思い水溜まりを覗き込むと周りの人達と同じ火傷を負った自分に気付きます。そして何度か気を失いながらも、親類が探し出してくれ、火傷の手当てをしてもらうようになるのですが、当時は赤チン(赤いヨードチンキの略称 マーキュロクロム液の消毒薬)しかなく、それを火傷に塗るしかなかったそうです。それでも包帯を剥がす時の激痛は耐え難く、何度も死にたいと思うほど痛かったと当時を振り返っていました。それでも、傷口にうじ虫がわかないように絶え間なく団扇であおいでくれた母親に鏡を見せてくれと何度頼んでも何か理由をつけてはぐらかされ、たまらず「見せてくれんかったら死ぬ」と言い張ると、瞬間だけ見せてくれた鏡に映っていたのは大きな火傷でした。これからどうやって生きていけばいいのか途方に暮れていると母親は「ごめん!」と言って泣きながら抱きしめてくれたそうですが、その身体の震えが何十年経った今でも忘れられないと皆さんに話しかけていました。傷が癒えていくうちに死にたいと何度も思ったそうですが、その都度、母親の顔が浮かび思い直したそうです。

高校に進学することになり、県外から入学している同級生が多く、じろじろ見られるのがしても辛かったという大橋さんは弟の担任をしていた先生に恋心を抱くようになり、結婚など夢のまた夢だと思っていたにも関わらず、ついには結婚することになります。被爆した人からは小頭症が産まれると聞いてとても不安に思いながらもお子様を出産したそうです。

その息子さんが印刷工場を営もうと選んだ場所は偶然ご自身が被爆した東平塚町だったことに因縁を感じながらも、その地で亡くなられた多くの方々に手を合わせる毎日を過ごされました。

その後、後期高齢者になってもみんなで励まし、助け合って光り輝いていこうという願いを叶えるため、ご縁のなかった廿日市市(はつかいちし)に「光輝幸齢者の集い セカンドぷち」という集いの場所を2014年に設け、7年続けたあと大橋さんは体調を崩され、残された命がある限り、あの日の惨状を伝えなければと思うようになり、「原爆の絵」として残そうと決意されます。



ご縁があって広島県立基町(もとまち)高等学校創造表現コース3年生の田邊美羽さんと知り合い、写真にある首から上と手足を無くして息絶えた赤ちゃんを背負う母親の絵を制作することになりました。

田邊さんは3年生となった春から2ヶ月かけて絵を描き上げたそうです。国際平和文化都市広島に学ぶ高校生として美術を学ぶ中で、「平和」と「文化」について想いを馳せながら有志の生徒が「原爆の絵」の制作ボランティアとして参加しています。

当時の服装や赤ちゃんを背負う紐等、分からないことも多く、描き進めては写真を撮ってSNSアプリで大橋さんとやりとりしながら何度も教えてもらったそうです。観客から「描く間は何を思って描いていたか?」という質問に「3年生で受験も気になりながら、自分が描かないといけないと思い、必死で描いていたので、考える余裕がなかったが、大橋さんが思い出すだけでも辛いのに、その想いに応えたいと思いながら描いた。原爆の絵を描くことによって、自分でも戦争についてより考えるようになったし、決して自分から遠くないところで今でも戦争あり、そのことを意識するようになりました」と答えました。

完成した絵を見た時には涙を堪えられなかったと大橋さんは語り、盛大な拍手の中、トークショーが終了しました。






 
 
 

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