top of page
検索

記録映画「平和記念都市ひろしま」と元中国新聞記者の西本雅実さんによる講演

更新日:2023年7月30日

2023年7月29日土曜日10:30より広島市平和記念公園レストハウス3階多目的室にて、記録映画『平和記念都市ひろしま』が上映されました。

この映画は昭和23年(1948年)から昭和24年(1949年)に内外映画社の秋元憲監督によって撮影されましたが、長らくフィルムの存在自体が不明となっていました。秋元監督のご子息が川崎市市民ミュージアムにフィルムを寄贈された事で記録映画としての存在が確認され、2015年、原爆投下後70周年の記念事業として元々2本あったフィルムを編集し、復元ノーカット版としてデジタル化されました。

無音画像に弁士として当時日本第一人者であった徳川夢声がナレーションを担当しています。

映画は空撮による太田川上流から、やがて6つの川に分かれて出来た中洲からなる広島市のデルタ地形の映像から始まります。復興が急速に進みキャバレーやダンスホール、貸ボート、牡蠣船復活、料理屋が乱立する街の様子、平和記念祭が行われ復興の一貫としてミス広島コンテストが開催される模様が映し出される一方で、原爆症で苦しむ人や、浮浪児狩りと称して戦災孤児たちが連行される様子も記録されています。

復興の視察に訪れた若き学生時代の皇太子さま(現上皇さま)の映像もありました。

また、戦前は軍需産業を生業としていた、今も広島を代表する企業の数々が戦後すぐに平和産業へ事業転換し、海外との輸出入が活発化する様子も記録されています。

昭和24年(1949年)、国会にて平和記念都市建設法案が満場一致で可決され、軍都広島から恒久的世界平和の発信地としての平和都市建設が始まりました。原爆中心地を平和広場、南側幅100メートルを比治山のABCCまで結ぶ直線道路とし、広島城を中心とした文京地区の二軸を基軸として都市計画がなされました。

その他少年の家、母子寮、労働者住宅と様々な構想が建てられましたが、資材資金不足のため現実は惨めなものとなりました。

映画の最後は、「ありし日の広島を復興するだけではダメです。70年草木も生えないと言われていたのに花も葉も焼土を栄養として植物は咲いています。

広島の親のない子たちが一番表しています。みんなで平和を守りましょう。

ノーモアひろしま。戦争挑発者と対峙して初めて広島が真の平和都市、平和の砦となる」とのナレーションで締めくくりました。



上映に続いて、元中国新聞記者の西本雅実さんにより、「知られざる記録映画『平和記念都市ひろしま』について」と題して講演が行われました。

この映画のフィルムを西本さんは東京まで見に行ったそうです。そして広島市が被爆70周年を機にDVDへの複製がなされました。

この映画では悲惨な場面はあまり映っていません。それはこの映画の目的がただ原爆投下の惨状を伝えるのではなく、海外へ移住した広島出身者に向けて、過去を乗り越え未来へ向けて復興を進めている広島の姿を伝え、海外からの支援を得ることだったからです。この映画を携え、楠瀬広島県知事と浜井広島市長はアメリカを訪れ上映しました。その後10万ドルもの支援を得て、母子寮や戦災孤児施設などが作られました。

そして、被爆者の吉川さんの背中のケロイドの写真がLIFEに掲載されたことで、被爆=ケロイドと考えられていました。被爆乙女と呼ばれた女性たちも、ケロイドを負っている女性を指しました。また現在、「被爆者」と呼ばれていますが、当時は「原爆傷害者」と呼ばれていました。

映画の中に出てくる風景は、川や橋は今も変わってないところも多く、基町、大手町、万代橋など確認できるところも多々あり、当時を知る来場者も懐かしんでおられました。時間を大幅に超えて、熱い解説が続きました。




 
 
 

Comentarios


Copyright © 2022 「原爆ドームとヒロシマ」実行委員会

bottom of page